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唐人墓(とうじんばか)

石垣市街地から島沿いを時計回りにおよそ15分程ドライブしていくと、開けた海沿いの敷地に、目を引く建造物があります。

遠目にも日本風ではない、その構造や装飾、色使いが特徴的な建造物は、沖縄が本土復帰する一年前の1971年に中国様式で作られた、悲しい歴史を背負った慰霊碑なのです。

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目次

1.美しく鮮やかな色彩の造形が、晴れた青空に映える

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屋根瓦などの形状に、どこか日本の寺社仏閣の面影を感じながらも、やはり異なるルーツを確信せざるを得ない、鮮やかでカラフルな配色がほどこされた造形は、思わず“インスタ映え!”と無邪気にスマホを向けたくなる、そんな魅力を力強く発しています。

唐人墓(とうじんばか)|虹のように多彩な色彩で構成された龍の装飾

様々に施された造形をよく見ると、美しい対の龍以外にも、日本人でもよく知る「三国志」の登場人物の様な姿が。

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そう、ここ「唐人墓」は中国と由来のある史跡なのです。

2.悲劇的な事件の末に亡くなった、中国福建省出身者128人を合祀する慰霊碑

唐人墓(とうじんばか)|慰霊碑に記された史実

1852年にとある事件は起こりました。

当時欧米の植民地となっていたインドや中国などアジア各地では、出稼ぎの労働者を「苦力(クーリー)」と呼んで、労働力としてアメリカなどへ輸出していました。

そんな中、苦力(クーリー)とされた中国人400名を乗せ、中国の厦門(アモイ)から米国カリフォルニアへ向かっていた商船の中で、仲間を殺されるなどのひどい虐待に耐えかねた中国人達が反乱を起こして、米国人船長と乗組員数名を殺害するという出来事が起こりました。

しかし船を乗っ取った中国人達が台湾に向かう中で、船は石垣島近海で座礁。

380人の中国人が島に上陸することとなりました。

石垣の人々は彼らを人道的に保護しましたが、のちに追撃してきた米英の船に3度襲撃を受け、結果大勢の中国人が亡くなったとされています。

なんとか逃げ切り琉球王国に保護された中国人も、その後疫病などで亡くなる人が絶えず、そのたびに石垣の人々は石を積み、お墓として丁寧に供養していました。

そして翌1853年に、生存者172人が中国 福州に送還されたのでした。

この事件は商船の名前を取って「ロバート・バウン号事件」として歴史に残り、その後長い間点在していた中国人のお墓を、合同で慰霊するために1971年に建立されたのが「唐人墓」なのです。

3.石垣の海を見渡す地に建つ、平和を願う史跡観光スポット

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「そんな重い歴史があったんだね。」

「そんな慰霊碑を観光地として訪れていいのかな..」

唐人墓(とうじんばか)|青空に映える、極彩色

悲しい歴史を今に伝える「唐人墓(とうじんばか)」。

唐人墓(とうじんばか)|鉾を構える人物像

唐人墓は、その極彩色の美しさとは裏腹に、とても悲しい歴史をしのぶ慰霊碑です。

唐人墓(とうじんばか)|慰霊碑の最も上部にある、3体の人物像

だからこそ、大勢の観光客が訪れることで、「世界の歴史や平和について考える」きっかけを与えてくれる、そんな貴重な観光スポットなのです。

唐人墓(とうじんばか)|道路沿いにある唐人墓の標識

【行き方】

石垣市街地の中心地にある「730記念碑」から、レンタカーでおよそ15分。

「具志堅用高記念館」を通り抜けて、観音堂線を左折。

住宅地からホテルの立ち並ぶ海沿いの道を進むと、右手に標識と無料駐車場があります。

駐車場内には、黒糖菓子が人気の「物産センター石垣島」もあり、こちらもオススメです♪

Photo&text:緑川 徹也

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住所: 沖縄県石垣市新川富崎

駐車場: あり

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